凍結ジャック・ニコルソン

某スタートアップ企業で鬱病罹患し事実上クビになり憎悪憤怒憂鬱に塗れ表現創造で解脱目指す

事実上クビになった会社にいる夢をよく見る

また夢見た。会社クビなって最終出社日で会社にいた。社長がぼそっと「もう帰っていいよ」と言う。CSOは完全無視。なぜか小中学同級生の河島(仮名)、高校同級生の森(仮名)がいた。あまり仲良くない営業担当が「案件取れそうっすよ」と煙草の箱を見せた。「一本どうすか?」と僕に聞く。

 

僕は断る。何周年かの記念で集合写真を撮るみたい。僕は入らないでおこうと思ったが、「写真で一生記憶に残ってやろう」と気を変えた。横の人とキュンポーズや片手同士でハートを作るやつをした。オフィスの近くに右翼っぽい過激なおばあちゃんが住んでいたらしい。

 

ディスプレイを路地のガードレールに貼り付け、ゴミの出し方を英語で解説してる動画を出していた。同僚の英語ネイティブスピーカーは動画を見て「やりすぎた」と憤慨していた。僕は宥めて「もしゴミの出し方で分からないことがあったら言ってね」と英語で言った。

 

オフィスに置いてある私物を持ち帰るために、オフィスに戻る。オフィスは前方に仕事をするデスクが並び後方に会議室が3つほどあった。前方の執務スペースは真ん中に大きな空間があり、それを囲むように四角にデスクが置かれていた。ペットショップでよく見かける間取りだった。

 

後方の会議室は人がギリギリ通れる廊下に面していた。僕が中学生のときに通っていた塾の間取りを彷彿とさせた。僕は前方のペットショップみたいな間取りの執務スペースにいる。学校にあったような机が横に並んでいて、恐らく僕の席であったであろう机から教科書を取り出す。

 

なぜ教科書が分からないが、僕のものと僕が辞めてからそこに座っていた森(仮名)のものが混在していたので、森(仮名)の教科書を持ち帰らないよう、注意しながら教科書をバッグに詰め込む。気付いたら机の上にフランス料理が置かれていた。大きな皿にポツンと小さい料理が添えられている。

 

辞めるときに僕が必要な資料の提出が遅れたらしく「家に資料届いてたでしょ?」と誰かに詰められる。僕が「いや、届いたのはかなり遅くて…」と弁解していると、情報システムの大川さん(仮名)が、「勤怠システムのエラーで郵送プロセスから漏れちゃったんだ」と言う。僕は救われた。

 

教科書を鞄に入れる作業に戻ると副社長が隣に座った。「君は何を考えてるか分からなくて、指導に少し苦労したよ」と言った。僕は「表現したい気持ちはあるんです。最後の方は上手く話せた気がしました」と言う。「うん、そういう人間がプロジェクト回す方がいいんだよ」と副社長は僕を慰める。

 

僕はこの人は僕のクビに反対してくれたのだろうと感じた。やはり僕をクビにしようと決めたのは社長とCSOなのだ。副社長は「ゆうき(仮名)が夜待ってるんだよね」と聞く。僕はすっかり忘れていた。2年ほど前の同僚と約束があったが、今日は葬式に行かないといけない。

 

そう言うと、横から橋本(仮名)という40代くらいの女性が「葬式なのにその服装はありえないでしょ」と咎めるように言った。冠婚葬祭らしからぬ服装だったらしい。僕は彼女が嫌いだった。堅くていつも人を非難している印象だった。僕はブチ切れた。

 

立ち上がって、お前に関係ない、プライベートにいちいち口を挟むな、と叫んだ。怖い形相をしていたと思う。同期で小中学同級生の河島(仮名)と話す。誰の結婚式に出席してる写真を見せてくれた。

 

写真の中にもう一人僕が知ってる人がいて、河島(仮名)は「実は留学のずっと前から知り合いなんだよ」と説明してくれた。という夢の話でした。以上。

晒したりネット集団で攻撃したり

ツイッターで、あるマナー違反行為の画像があり、拡散されていた。リプライや引用リツイートなどで、数百、数千の批判があった。悪いことはダメなんだけど、悪いことをしてるときに写真やアカウントをネットで晒して集団いじめみたいなことをするのは怖いな。もう少し別のやり方の正義はないのかね。

 

ムカつくこととか悪いこととかあると、相手の人に復讐的なことをしたいと思って、「ネットで晒す」という行為が思い付くんだよね。直接自分で注意できなかったり、自分ひとりで注意してもどうにもならなかったり、警察に行くほどの悪さじゃなかったり、警察に行ってもどうにもならないことだったりで。

 

素人なりの正義の振りかざし方というか、自分が唯一できる復讐の仕方というか。その悪さ、イライラの発生源をやっつけたい、誰かに共感してほしいって思って、ネットで晒すが一番コストがかからない、簡単なやり方だったりするよね。個人の心の中のモヤモヤをどうにか発散、解消したいんだろうね。

 

本当に悪いことなら、然るべき機関がどうにかすべきだけど、機関に伝えるのって面倒だし、何もしてくれないかもだし。法律違反とか大きな迷惑とかでなければ、どんな機関も対応してくれないかもだし。どうしていいか分からない、勇気がない、面倒ってので、自分で指摘、行動是正ができないかもだし。

 

正義を振りかざしたいのではなくて、単純に自分の中に生まれたモヤモヤを承認、共感してほしい、発散したい、というのがモチベーションの場合もあるだろうし。その問題に対してマナー違反や迷惑を注意する余裕や能力がないことが原因かもしれないし、モヤモヤをそのままにしてられないのかもしれない。

 

絶妙なラインの悪いこと・イライラさせることに報復しやすいプラットホームがあるから、コストを低く報復、イライラ解消できる「ネットに晒す」という発想が安易になったのかも。別にどうにかしてほしい訳じゃない、どうにかするのもコストかかる、でも今のモヤモヤをどうにかしたい、という流れ。

 

ただ「ネットに晒す」って誹謗中傷に繋がったり集団いじめみたいになるから怖い。攻撃目的でなくモザイクかけるとか完璧に情報を隠すならいいけど、顔・容姿とかアカウント名とか、個人やアカウントが特定されうる、個人の記号の紐づく情報が何かしら残ってると、「ネットに晒す」は影響が大きい訳で。

 

リテラシー低い人は、ネットで匿名性があるから何でも晒してもいいやってなってそうだけど、リテラシー高いと影響理解してるから個人特定される情報はしっかり隠すんだよね。別に悪いこと、マナー違反を容認してる訳じゃないけど、一つの失敗でコテンパンにいじめて、再起不能にするのは少し怖いなと。

 

もちろん本当に悪いこと、度を超えた悪いことで、正式に取り締まらない、罰しないといけないことに、ネットを使うのは一つの手段でいいと思う。ただ、「一度注意して次からしなければ大丈夫じゃないか」ってことでもネットで晒すのはどうかなと。線引が難しいかもしれないけれど。

 

個人的にも、僕を実質クビにした会社にどうにか報復したくて、正直別のアカウント作って「晒す」を考えて少し葛藤したこともある。もし本当に邪悪なら正式にどうにかするように然るべき機関に相談するのもありかもだし、企業に対してとりあえず文句言うのもありかも。

 

正式に行動するほどでもなかったり正式に行動することのコストが高すぎて行動に至れないなら、自分の中でモヤモヤと対処する方法を身に着けるしかないのかも。特定されないように上手いこと情報隠して自己満足で愚痴を書き綴るとか、他のモヤモヤ解消のためのストレス発散法を身に着けるとか。

 

モヤモヤしないように、気にしないように常日頃から心と身体を鍛えておくとか。繰り返しだけど、どうしてもどうにかしたいなら、直接その人・組織に語りかける、然るべき機関に相談する、と具体的に問題解決をするしかないのかも。自分の心理の問題か、社会、他人の問題か、切り分けるのが大事かも。

 

ムカつくときって個人的で悪さ度合い・迷惑度合いって相対的だから測りにくいけど、絶妙に対応するほどでもない迷惑・イライラ行為って「復讐してやりたい」と思うし迷惑かけてイライラさせた奴が涼しい顔してるのは腹立つけど、本当の本当に大事な問題でなければ、諦める、気にしない、って大事だな。

 

そして「ネットで晒す」、それにより誹謗中傷や集団いじめの発生が起こりうる、という構図を理解するリテラシーは身に付けておいた方がいいのかも。特定の相手に、特定の相手が誰か分かるような形で人格を攻撃することの影響というのを理解しておきたいな。自分に不利益になる可能性も十分にあるし。

 

「復讐したい」という気持ち、僕も結構あるんだよな。愚痴とか文句とかいつも言ってるし。実際の人に危害が及ぶ、個人が特定できてしまう人格攻撃、アイデンティティ攻撃になってないかな、って考えてみるといいのかもな。レスバ、ツイッター上のプロレスを見るのは僕も好きだし。線引がね。以上。

セックスがしたいのか

こんばんは。今日は友人の文章をチラ見させてもらい、感情や情景のああだこうだを書き出すのはたぶん心が少しばかり浄化させるんだろうなと思い、僕も書いてみようと思った。

 

何を書くかというと、僕は本当にセックスがしたいのか、なぜセックスがしたいのか、だ。

 

僕はうつだ。通院・服薬して2年弱になる。仕事中は機能している。考えるのが得意な方だと思う。土日はたまに布団の上から動けないことがあるが、でもちゃんと遊びに行くこともある。そんな僕だが、なんだかんだあって、セックスを沢山したいなと思うようになった。29歳という、普通だったら落ち着いていても良い年齢になって、遊びたいという感情が芽生えている。少し恥ずかしくも感じている。

 

理由、というか、きっかけはある映画だ。その中の役柄で、表ではウェディングプランナーとして新婦を精神面でもサポートしながら、裏では新郎とセックスフレンドである、という女性がいた。銀縁の眼鏡が素敵だった。仕事中の正装と、セックス後の裸のギャップが美しかった。その映画を見て、強い妬み嫉みのような、劣等感のような、そんな感情を抱いた。かなり強めの感情で、死ねば楽だろうにと思った。こういう感覚は初めてではなかったのだが、強さで言うとずば抜けて一番だった。たまに彼女の写真を見ると、思考が機能しなくなり、世界から消えたいと思う。そして、たぶん、セックスを沢山すれば、沢山の女性と身体を交えれば、少しばかり気持ちが落ち着くんじゃないかと思い立った。

 

この強烈な劣等感に近い感情は、強度の差はあれ、中学くらいから芽生えた気がする。同級生の女の子が性的な経験の話を、さも日常会話のように話しているとその感情が芽生えた。男子が女性慣れしているような場面、性的な経験が豊富だと示唆した時なども同じだった。なんだろう、よくわからないのだが、貞操観念を軽率に扱われていると、嫉妬のような、劣等感のような感情が生まれる。それは、今になるまで度々起きた。当時付き合っていた彼女が過去の男性の話をした時、居酒屋で男性が女性を軽率に性的に扱っているのに遭遇した時、同僚が少し性に関して積極的な会話をした時、その環状が生まれる。

 

女性を軽率に扱う男性への怒りじゃない?、なんて友人に言われたことがある。(そのような感情に関して、その友人以外に話したことはない。)ただ、そうでもない。どちらかというと、憧れに近い。貞操観念の壁の向こう側がどうなっているか、未知で、僕も知りたい、そっち側に行きたい、そんな感覚。「落ちる」という表現が正しいかはわからないが、一度下まで落ちてみたい感覚。退廃的態度に近い気がする。僕は至って真面目な人間だと自負しているが、それを一度壊してみたい、のような。簡単な言い方だとセックスをしまくりたい。単純に彼女ができて、セックスをするだけじゃダメなんだろうかって考えたこともあるが、どうやら求めているのはそれじゃないらしい。「もっと死にたくなるかもよ」なんて忠告はうけて、なんとなくそれも想像できるけど、でも、それでもセックスがしたい。

 

そういえば、高校生の時に、父親のタバコに火をつけて、火がついた先端を、手首の少し上に何度もこすりつけたことがある。根性焼きというやつ。同じ箇所に何度もつけたから、100円玉くらいに大きさになった。記憶する限りあまり痛くなかった。その前後で自分の部屋の壁を殴って穴を開けたりした。何をしたかったかというと、上の劣等感のようなものを消したかったのだ、と今これを書きながら思った。

 

当時同い年の彼女がいた。高校3年生でもうすぐ卒業の頃。彼女はもう自分に興味がないことは明らかだった。一回過去に別れてみた気がする。でも、彼女が他の人が好きだとわかりながら付き合い続けた。卒業式の日、同級生20人?くらいと居酒屋みたいなところでご飯をしそのままカラオケに行った。その20人の中に彼女もいたが、カラオケでは別の部屋に入った。その部屋は、ホストっぽい髪型をして、少し悪いと分類されそうな、いわゆる「チャラい」メンバーが入っていった。おそらくそちらの部屋では喫煙も飲酒もしていたと思う。カラオケが終わりに近づいた頃、おそらく朝5時位だったと思う、彼女に呼び出され別れたいと言われた。僕はその場で泣いた。後で話を聞くと、その部屋の中で少しいやらしいゲームをしたらしい。お絞り越しにキスをしたり、ブラジャーを外したり。(これは、今思い出しても、心臓が微動する気がする。)

 

それを彼女から聞いた時に泣き崩れて、振り返ると本当に恥ずかしいのだが、その時はその感情は嫉妬だと思ったのだが、振り返ってみると、その彼女に対する嫉妬ではないと思うのだ。強がっている訳じゃない。たぶん、その女性全体に感じている、貞操観念の向こう側への憧れ、そこから生まれる劣等感なんじゃないかなと思う。それがわかりやすい形式で現れたのである。その感情のせいで、タバコを腕にジリジリこすりつけた。痛みが感情を消してくれると思って。でも、痛くなかったから意味はなかったのだと思う。

 

セックスがしたいなら彼女を作ればいいのだと思う。性欲を満たしたければ風俗に行けばいい気がする。でも、求めているものはそれじゃない気が大きくする。もしかしたら、間違っているかもしれない。普通に恋愛をすれば解決するのかもしれない。でも、今はセックスがしたい。そればかり考えている。満たされる満たされないの話ではないと思う。仲間外れにされている感覚、それを消したい。人間として劣っているという感覚、それを消したい。そのために、一回自分を解体してみたい。セックスを沢山したい。純粋に性的欲求と知的好奇心を追求してみたい。

 

眠たくなったきたのもう寝るが、あの映画を見たときの感覚、おそらくうつの根本原因であるものの見方、まだうまく言語化できていない気がする。イケメンでもないので、セックスできるかわからないが、セックスができたら、色々書いてもっと自分と仲良くなろうと思う。

 

こんな僕でした。では、おやすみなさい。

妖艶なウェディングプランナーに心を奪われる

※映画『愛なのに』のネタバレを含みます。

 

僕は2022年2月26日にある映画を見た。そして、壊れた。

 

それは歪な愛に関する映画だった。主人公は高校生に求愛され、学生時代に想いを抱いていた、結婚を間近に控えた女性にセックスだけしてほしいと頼まれ、戸惑う。いろんな愛の形がある。肯定も否定もしない。でも存在は認める。そんな映画だった。

 

ウェディングプランナーの女性が登場する。結婚式の計画を進めている男女二人組に、プランやウェディングドレスを提案している。生産ラインみたいにずらっと並ぶ沢山のウェディングドレス。新婦が頭を抱えて何度も試着する。新郎はドレス姿を見て、「いいね」と当たり障りない、熱が籠もっていない言葉で褒めている。ライン、装飾布、柄、色味、素材、気が遠くなりそうな数。ウェディングプランナーは新婦の想いに真摯に耳を傾け丁寧に提案する。新婦がどれだけ時間をかけて選んでいても、疲れ一つ表情にでていない。埃一つない整ったスーツ、知性を映し出す銀縁の眼鏡、プロフェッショナルさと溌剌さが見えるポニーテール、ハープを演奏するような丹精で繊細な身振り手振り、美しさと品性を持って新婦に接している。

 

ウェディングプランナーは新郎とセックスをしていた。浮気していた。愛の契を交わそうとしている男女の、新郎の身体を熱情的に求めていた。新郎の身体の上に乗り、唇を重ね合いながら、腰を動かしていた。瞼には力が入っていない。快楽に溺れながら苦しそうに息を試みて音が漏れ出ている。

 

僕は混乱した。ウェディングプランナーの魅惑的な姿に、凄まじい引力を感じた。僕自身もどういう感情かわからなかった。嫉妬なのかもしれない。劣等感なのかもしれない。欲情なのかもしれない。ただただ混乱して、心臓が熱く震えていた。

 

結婚を間近に控える新郎新婦の挙式を担当しながら、ウェディングプランナーはその新郎と密会をしていた。一度だけじゃない、何度も会ってセックスをしている。日常では熱心な眼差しでカップルに丁寧に接している、美しい女性。新婦には嘘偽りない堅実で真摯に対応をしている。新婦には真摯に向き合いながら、非日常では、新婦の結婚相手とセックスをしている。

 

世間一般では「不倫」「浮気」というもので、もしかしたら「ひどい人間」と形容されてしまうかもしれない。でも僕は凄まじい魅力を感じた。その行為を含めて美しいと感じた。恋に近いものがあった。心を掴まれた。

 

社会通念上は不道徳と描写されそうな状況に身を置きながら、美しく余裕があった。自由だった。ウェディングドレスを新郎新婦に提案しているときも、人を見下すような素振りは全く無かった。そのときは嘘偽りなく真摯に丁寧に品性を持って対峙していたのだと思う。でも裏では素直に原始的な欲求を求めていた。「幸せの直前、結婚式の重みや計画で疲労が溜まっている人を解放してあげている」というようなことを言っていた。もしかしたら背徳感に快感を覚えていたのかもしれない。何より、自由だった。素直だった。

 

新郎が「バレそうになっているからもうこの関係を止めよう」と提案したとき、明るく軽く「いいよ」と答えた。「砂糖とって」と言われて返答するみたいに、飄々としていた。執着がなかった。何度もホテルで新郎とお互いの裸を求め合ったのに、何の後腐れもなさそうだった。その関係にはあまり重量を持たないみたいだったように、「いいよ」と答えた。

 

そう、そういう芯がある姿、余裕があって心が自由で欲求に素直な姿、それに引き込まれた。浮気関係に身を置いていない彼女だったら、もしかしたらここまでの魅力を感じていなかったかもしれない。”不真面目”な文脈に身を置きながら、表の世界では品性と知性を持って仕事をしながら、それでも自由な彼女に心を掴まれたのかもしれない。

 

セックスのときには銀縁の眼鏡をかけていなかった。髪も結んでいなかった。生まれたままの姿。セックスが終わったら下着、キャミソールだけを身に着けていた。妖艶だった。セックスの映像が目に入りながら、新婦に丁寧に接するスーツ姿の美しい彼女を思い出す。その、真面目で不真面目で、真摯で自由で、そんな彼女に心を惹かれてしまった。

 

この映画を見たときに「セックスをしたい」と思った。前の彼女と別れてから三年くらいずっと一人だった。セックスもしていなかった。風俗は行ったが、「セックスをしたい」と強烈に感じたことはなかった。でも映画を見て、僕は壊れた。

 

映画を見たあと、数週間心臓を縦に横に大きく振られているようだった。嫉妬、劣等感、欲情、恋、自己否定、空虚、不安、羨望、自身欠如、色んな感情がドロドロと混ざっていた。醜い色の絵の具が数色パレットの上で混ざるように。どうしていいかわからなかった。恋に近かったのかもしれない。感情の置き場に困った。死にたいと思った。彼女のことで頭がいっぱいだった。

 

映画を見てから半年ほど経った。今でのあの映像を思い出す。新婦に丁寧に接している知的で美しい姿と新婦を本能的に求めセックスをしている魅惑的な姿。忘れたい気もするが、忘れたくもない。たぶん忘れられないだろう。もしかしたら僕が求める女性にはそのウェディングプランナーの影があるかもしれない。世間的には”不道徳”であっても、自由で身が軽くて飄々としていて、欲求に素直だった。

 

そんな女性と出会えるといいな。出会えるかな。

恋人ごっこの儚さが、こわい

すぐにでも会えなくなる気がして。すぐにでも世界についての言葉を交わし合うことがなくなる気がして。すぐにでも身体の温度を感じることができなくなる気がして。

 

世界中と繋ぐ電子通信網上の空間での出会い、それには儚いものがある気がする。

 

例えば、共通の友人を通じて知り合った場合、段階みたいなものがある。特に意識をしないまま何度か共通の友人を通じて会う、どこかのタイミングで連絡先を交換する、仕事終わりや休日に趣味の話や仕事の話でテキストを渡し合う、数日か数週間か数ヶ月か経ってお互い気が合うなと思って2人だけで会う、食事を共にしたり映画を一緒に見たりと何度かデートを重ねる、どちらかが「付き合ってほしい」と心の中を打ち明ける、身体を重ねる、何度も身体を重ねたり他の誰にも話したことの内容な心情や過去を打ち明ける。

 

別に順番がある訳でもない。何が正しい訳でもない。ペースも関係性の深さも、全然違う。

 

会った当日に身体を重ねることだってある。言葉のやりとりをしている時から探り合って、でも一週間後には会う約束をして、そして会った日にホテルに行く。そういう出会いだってある。

 

一般的が何かなんてわからない。でも、こういう関係は、身体の一番恥ずかしい部分を見せ合うまでの時間は、短めだと思う。連絡をした日に会ってセックスすることだってある。そういう風に、ちょっとずつお互いの性格や好き嫌いや行動習性を知る訳ではなく、すごく短い時間で、反対にお互いのどんな好き嫌いがあるかとかどんな仕事をしているかとかを知らずに、お互いのすごくプライベートな身体の部分を重ねる。

 

何も悪くない。間違ってなんていない。でも、別れもすぐにきそうな予感がする。

 

セックスして全く合わないこともある。その一度きりでもう連絡をしたくなくなることもある。反対に、僕はもう1回セックスしたいと思っても相手から無視されることだってある。人間だ。合う合わないがある。タイミングがある。

 

でも時折、すぐに身体を重ねて、それでも波長がすごく合う人がいる。話の相性もある。「相性も」というか、話の相性が合うからセックスの相性も良いし、セックスの相性が良いと話の相性も合う。そういうものだと思う。

 

そういう波長が合う人でも、そういう風にすぐに身体を重ねた人でも、別れがすごくこわくなる。そして、すぐに身体を重ねたからこそ、いつでも別れがすぐにやってきそうな気がする。儚さがこわい。

 

2人で会っている時は、シンプルに楽しい。ご飯も一緒に食べるしお酒も飲むしセックスもする。このままずっと一緒に居られると楽しいだろうなと思うことだってある。

 

でも、頭の片隅では、いつもこわい。気付かないフリをしている気がする。

 

「付き合っている」「恋人」なんて、名前もつけていない。「恋愛」かどうかなんて確かめていない。名前もつけるのも、恋愛かどうか確かめるのも野暮な気がする。同時に、「彼氏になりたい」「彼女になって」って言わないことが卑怯だと言われると、「そう、僕は卑怯だ」と認めると思う。勇気もないし準備もできていない。「恋人ごっこ」と呼ばれても別に気にしない。たぶんそうなんだろう。どうだっていい。

 

来週も会う約束をした。

 

お互いに言葉にも表情にも出さず、わかっていながら気付かないフリをしている気がする。もしかしたら、今を楽しもうって思っているだけかもしれない。でも、僕は心のどこかで、突然会えなくなる日が襲ってくることを恐れている。会う約束はしたけど、今突然連絡が来なくなってもおかしくない気がしている。こわい。

 

昨日、セックスして夜が明けた4時くらいに目が覚めた。こわくて、少しだけ涙を流した。

 

そんなにこわいなら告白して付き合えばいい、と言われるかもしれない。そして、たぶんそれは正しい。もしかしたら「付き合ってください」と明日言うかもしれない。でも、わからない。名前を付けることが正解なのか。相手が同じことを求めているのか。自分がそれを求めているのか。卑怯だと言われても仕方ない。でも、そういう、名前を付けられない関係や感情があることは理解してほしい。それだけは事実だとわかってほしい。

 

今もこれを書きながら泣いている。明日からその人との関係が絶たれ、もう彼女の体温を感じることがないかもしれない。そのことを考えると、すごく哀しくなる。淋しくなる。こわい。

 

儚さが、恋人ごっこの儚さが、こわい。振り向いたら別れがやってくるかもしれない。こわい。もう彼女の体温を感じられないかもしれない。こわい。

ぐちゃぐちゃに絡み合った毛糸みたい

そう、思い出した。自分に価値がないようなそんな感覚。誰も自分を見ていないような、自分の顔と身体が透明のような、そんな感覚。

 

雑誌か何かを読んでいるとき「モテるためには相手があなたと一緒にいたくなるメリットを提示しないといけない」と書かれているのを見た。

 

メリット。相手が僕と一緒にいるメリット。考えたことなかった。そんなもの提供しないといけないのか。今まで関係をもった人にはメリットを提供できていたのか。

 

「メリット」という言葉を使うと凄く無機質で無色透明な感じがするけれど、うまく言葉にできなくても、意識の下に潜っていたのしても、関係を持つときは何かを求めていることには間違いない。だから誰かと一緒にいたいと思うのだろう。

 

そう、「彼女がほしい」「彼氏がほしい」と思うとき、その想いは意外と単純じゃなかったりする。

 

生きることの楽しさとか苦しみを分かち合う人がほしい。空いた時間を埋めてくれる人がほしい。ご飯とか遊びとかを一緒に楽しめる人がほしい。セックスができる人がほしい。そういう風に何となく外に向いているようなときもある。結果的には内側を向いてるけど、焦点が外側のとき。

 

相手がいるという事実で心の穴が埋められる。自分のことを好きでいてくれる誰かと一緒にいることで満たされる。「彼女がいる」というステータスを持っていたい。誰かが一緒にいてくれることで自分への価値を感じる。セックスすることで誰かが愛してくれている気がする。こんな風に内側に向いてるときもある。行為としては外だけど、内側の自分の孤独、価値に関しての内省の結果としての行為。自分を満たしたいという思い。

 

SNSでこんな言葉を書いている人がいた。正確じゃないけど、こんな感じだったと思う。

 

「好きな人が結果的に彼女彼氏になるのはわかる。一緒にいたい人がいないのに、彼女彼氏がほしいって言ってるやつは自己満。自分を満たしたいだけ」

 

言いたいことはわかる気がする。誰かと一緒にいることに関して理性だけで考えるとそうなのかもしれない。

 

でも人間は理性的じゃない。人との関係に関しては特に言葉で説明できない何かがある。

 

何とか誰かと一緒にいたい思いを言葉にしてみるとする。言葉にしようとすると「寂しいから」と、額面上はすごく利己的な言葉になるかもしれない。クリスマスとかのイベント事でいつも1人で、友だちはみんな彼女の話をしていて孤独を感じる、何か辛いことがあるときに共有できる相手がいない、そういう日常で生まれる感情の積み重ねで「彼女がほしい」という解決策が思いつく。言葉にしようとすると、表向きはそういう思いかもしれない。

 

そしてこの思考の流れに対して、さっきのSNSの言葉は「自己満足だ」と形容する。

 

でも、もし本当に「自己満足」という形容が正しいとして、もしさっきの思考の流れが本当の本当に心の中で起きていることの外部化だとして、自己満足で何が悪いのか。本当に自己満足だったと色んな人から認められたときに、自己満足の何がいけないのか。自己満足以外で行動することなんてあるのか。さっきのSNSの投稿者は自己満足で人と関係を持ったことはないのか。もし無いなら、どんな動機で関係を持ったのか聞いてみたい。

 

人と関係を持つときの目的なんて、在って無いようなものだと思う。「目的」なんてことを考えたときに、その関係は空虚になる場合だってある。「目的」があったからといって「結果」がピタッと当てはまる訳でもない。いろんな行動や時間を経て、求めていたものと違うものが満たされることだってある。求めていたものがそもそも本当の本当に求めていたものとは違っていたかもしれない。自分が求めていたことに気付いていなかっただけかもしれない。

 

そう、ぐちゃぐちゃに絡み合って玉になった糸みたいに、複雑だ。人間関係、特に恋愛対象(「恋愛対象」という言葉自体がある枠組みを押し付けるから適切じゃないかもしれないけれど)の相手に何を求めるか(何を求められているか)は、自分でも分かっているようで分かっていない。「分かっている」と思っている人はもしかしたらあまり考えていなくて社会通念に枠組みを押し付けられて「普通の」恋愛をしているのかもしれない。それが悪いとは全く思わなし、「恋愛って何?」って疑う人でも自分の感情が何かなんてわかってない。

 

でも色んな形がある。「親密になりたいから付き合いたい」「『彼氏』『彼女』『付き合ってる』なんて名前を付けたくない」「心のどこかでは名前は付けたいけど、その一歩を踏み出すのは怖くてそのままにしている」「別に名前を付けなくてもセックスだけできればいい」「セックスもしたいけど少しだけ『恋愛』と呼ばれるような素敵な時間を過ごしたい」。

 

今はわかりやすく言語化しているだけで、往々にして言語化できない。もしくは言語化できると思っていても本当に感じていること、本当に思っていること、本当の自分は雲がかっているかもしれない。色んな形があってもいいと思うし、わかりやすい形に落ち着くことを期待する必要もないと思う。

 

一緒にいてくれる相手を求めるなんて自己満足で良いと思う。むしろ「自分の言動に自分が満足する」というのが自己満足の意味なら、自己満足以外の何物でも無い気もする。

 

僕が思ったのは「わかりにくくても他の人が口出しするようなことじゃない」ということ。もし当人たちがお互いが求めていることのギャップで苦しんでいるのなら、当人たちが話し合ったり別れたりして解決すればいい。でも外の人間が「それは自己満足だ」「セックスだけする関係なんてありえない」「そんな関係おかしい」なんてジャッジするのは少し気持ちが悪い。そして、僕の「気持ち悪い」という感覚はおかしくない気がする。

 

人が複雑だってことを受け入れたい。人と人との関係はわかりにくいってことを受け入れたい。型にはめないでほしい。枠を押し付けないでほしい。僕はそう思った。だから言葉にしてみた。

心臓が痛い

これは、マッチングアプリで遭遇した、ある女性への宛てられたものである。フィクションか、実際に起きた出来事かははっきり言えない。ただ、僕の憤りの感情は真実であると思ってもらっていい。

 

最後に「だるい、ごめんなさい」という言葉にしたということは、なぜ僕が憤っているか、理解が及んでいないと思う。だから、こういう風に文章にしてみる。

 

その人をKさんと呼ぼう。2日前くらいからメッセージのやりとりをしていると思う。仕事の話や考え方の話、特に何も違和感もなく気持ち良く楽しく、話をしていた。

 

そのマッチングアプリ上では写真などのやりとりができないという制約があって不便なことからだったり、仲がよくなってきたことを示したりするために、別のソーシャルサービスへ移行してコミュニケーションを続けることもある。Kさんは「こっちで話しませんか?」と提案をしてきた。

 

その人がセックスをする相手を求めているのか、恋人を求めているのか、友人を求めているのか、よくわからなかった。しかし、お互いに聞き合うのも野暮である。そして、話は合っていた気がした。だから、マッチングアプリから抜け出して別のサービスを使ってコミュニケーションを取ることを断る材料はなかった。

 

日が変わってもメッセージのやりとりをしていた。猫の話をしていた。その時に、彼女が話を切り替えた。僕がプロフィールで「親友ができた」と書いていたのである。マッチングアプリで親友ができたのだ。本当に何でも話せるような友人だった。

 

僕は話の流れに合わせていたが、その人が「セックスをするような友人ですか」と聞いてきた。僕は、違う、と答えた。その友人とは一度セックスをした。しかし、セックスフレンドにならないという話し合いをした。だから、本当に仲のいい友人だった。

 

「セックスしたくなりませんか?」と聞いてきた。友達だからならない、と言った。「相手から求められたらのっちゃいますか?」と異様にセックスの話をしたがる。

 

この辺りから少し違和感を覚えた。別にセックスの話をすることは問題ない。数日しか連絡をとってないしこれまでは日常会話だったのに急に距離が近くなったなとは思った。でも、悪い癖で、僕は聞かれたことはいつも真摯に答えようとするから、丁寧に回答していた。そういうつもりだった。

 

「セックスしたくないと言ったら嘘ですよね」と聞いてきた。確かに、性欲というものがあり、その友人とセックスがしたくなる時はあるのかもしれない。でも、今はする気はない、と答えた。

 

そしてここからだ。Kさんが、急に「病気は大丈夫ですか、私は検査に行っています」と言ってきた。一瞬、親切心かとも思った。同時に、なぜこの会話の流れでその発言をしないといけないか、よくわからずモヤッとした。

 

僕はそこまでセックスの経験がある訳ではないが、たしかに、不特定多数の人とセックスをするのであれば検査はした方がいい。2ヶ月くらいで2, 3人とセックスをしていたので、そうですね、検査受けます、みたいに答えた。実際に、僕は不特定多数としてるとは言えないし、検査もしていなかった。

 

ちなみに、ここまでの会話で、セックス以外の話へ切り替える地点が何度もあった。それでも「セックスフレンドですか」「セックスしたならセックスフレンドにならないのですか」「誘われたらセックスしますか」など執拗にセックスの話をしたことは、皆さんにわかってもらいたい。なぜか、この話をしたがっているみたいだった。

 

さらにここからが僕の憤りの発端である。「私不特定多数の人としてる人無理なんです...」と言い出した。僕はこの発言の意図が全くわからなかった。

 

もし、Kさんがセックスする相手を探していたのなら、すぐにそう言えばいい。「実はセックスする相手を探しているが、あなたが不特定多数と人とセックスしていると推論できたので、もうあなたとは会えない」と言えばいい。もしくは、メッセージのやり取りをしている媒体には、相手と連絡を取れないようにする拒絶機能がある。それを使えばいい。それでメッセージのやり取りができなくなる。

 

もし友人を探しているなら、わざわざそんな話の方向性に固執せず、話を切り替えればいい。もし友人であっても、不特定多数と人とセックスをしている人が人間として受け付けないなら、同じく拒絶機能を使えばいい。

 

にもかかわらず、「セックスフレンド数人いる人は無理」「人間として受け付けない」「不特定多数の人とセックスする人は本当に無理」「一定期間中に何度もセックスする人ってこわいですよね」と繰り返し僕に伝えてきた。この時点で僕は、この人が何をしたいのかが全くわからなくなっていた。

 

ちなみに、この時点で僕は不特定多数とセックスしているなんて一言も言っていない。恐らく、会った日にセックスをした話をしたから僕に何かしらのイメージを貼り付けたのかもしれない。(僕は、別に不特定多数の人とセックスをすることが悪いとも全く思っていない。)

 

そういう意見があるのは理解できる。過去に嫌な出来事があったらしい。でも、ならそれを避ければいい。僕と話を切ってしまって、コミュニケーションができないような設定にしてしまえばいい。不特定多数とセックスするような人を避けてしまえばいい。

 

なぜ、人間性を否定する必要があるのか。なぜ、人間としての存在意義を疑って、さらにそれをわざわざ人に明言する必要があるのか。しかも、会ってもないし、メッセージのやり取りをして、数日しか経っていない相手にである。

 

なぜ、攻めるように、僕の人間性を否定するかのように、言葉を投げつけないといけないのか。なぜ、マッチングアプリからわざわざ別のコミュニケーションツールへ移動して、それ自体が気持ち良く会話ができていて協調性を継続しましょうという兆候であるにも関わらず、会話の流れを意図的にセックスの方へ持っていき、さらにある特定のグループの人間性を否定する、攻撃的な言葉を発せないといけないのか。

 

繰り返しになるが、過去の出来事で、ある属性の人全体が、他の要素がどうなのかは全く関係なく、嫌いになるのは理解できる。そこにロジックは通用しない。へばりついたエモーションは取れない。それは本当に理解できる。

 

ただ、なぜわざわざ、マッチングアプリで出会って、まだ心理的距離も近くなっていない、メッセージを何度か交換しただけの相手に向かって言う必要があるのだろうか。

 

Kさんは「会話の流れで」としか言わない。しかし、猫の話から、急に友人の話に切り替える言語力があるのなら、嫌なことについて話さない能力もあるだろう。それを、なぜ僕に向かって執拗に、恐らく、6度か7度くらい、人間性を否定するような嫌悪感を示さないといけないのか、全くもって理解が及ばなかった。

 

何とか理解しようと、何度か質問も投げかけてみた。僕もすでに憤り始めていたので、優しい質問の仕方ではなかったかもしれない。しかし、Kさんは論点をずらして、「じゃああなたが不特定多数と人とセックスしてるってことですか」と質問をしてくる。それは論点でない。

 

もしそれをそんなに気にするなら、メッセージのやり取りなんてやめてしまえばいい。論点は、心地よく言葉の交換をして親睦を深めようと試みていたのにも関わらず、マッチングアプリで出会ってまだ心理的距離も近くなっていない、メッセージを何度か交換しただけの相手に向かって、ある特定のグループの人間性を否定する発言を繰り返しするのか、である。

 

理解しようとコミュニケーションをとってみたが、恐らくKさんは、なぜ僕がここまで憤っているか理解できていないようだ。正直、僕もこんなに精神を消耗する必要もないと疲れ始めていた。僕だって無視してしまうことができた。

 

でも、ある特定のグループの人間性を繰り返し否定する態度が許せなかった。嫌なら話さなければいい。嫌なら避ければいい。なぜわざわざ議題のテーブルにのっけて、何度も何度も明示的に人間の存在価値を否定するのか、それが解せなかった。

 

僕は今心臓が痛い。

 

最後に、なぜマッチングアプリをしているのか質問したが、それから返信が来ない。ここまで人の心を蝕んでおいて、説明に欠けるのは納得がいかない。人というのは時に無情である。

 

僕の知識が不足しているのだろうか。僕に共感が欠けているのだろうか。人間性を否定されるべき人間がいるべきなのだろうか。

 

僕はこの人とは一生連絡をしないと思う。もう、メッセージのやり取りができないように設定の変更を行おうと思う。それでも、少し心残りだ。仲良くなれると思ったのに。でも、僕は、人の存在価値を否定する発言をする人間が嫌いだ。だから仕方ない。この憤りは真実なのだと思う。

 

文章を書くことで少しばかり気持ちが楽になった。文章にしないといけないと思った。文章にして良かったと思う。

 

心臓が熱い。心臓が痛い。今日眠れるか、少し心配だ。