凍結ジャック・ニコルソン

某スタートアップ企業で鬱病罹患し事実上クビになり憎悪憤怒憂鬱に塗れ表現創造で解脱目指す

ツイッターで裏垢を始めた理由

僕は裏垢というものをツイッターで始めた。「裏垢」の意味は誰にも分からない。ただ、他にメインらしきアカウントがあり、そこでは「チンチン」「セックス」と呟かない。じゃあ裏垢では「チンチン」「セックス」と呟いているだけかというと、そうでもない。

 

困ったもんだ。僕が裏垢を始めた理由はセックスをするためなのだ。僕はティンダーをしており、記憶ではその年はセックスができていた。必死だったのだ。毎晩スワイプし、毎晩マッチを解除され、毎晩興味のない議題についてメッセージのやり取りをした。当たり前だが、鬼の数上手くいかなかった。それでも、セックスができていた。

 

しかし、2022年6月19日を境に、セックスができなくなった。当時僕はポテサラさん(仮名)と関係があった。3ヶ月くらい、セックスしたりデートしたりしていたのだ。告白しようが迷ったくらいだ。そして「もうセックスできない。元彼が気になるし、もう一回トライしてみたい」とのことだった。

 

あちゃーっとなった。そしてそれからセックスをしていない。僕は今30歳だが、30歳って、みんなセックスしているのだろうか。よく分からんが、性欲盛んな男にとって、1年セックスをしていないというのは、びっくり仰天なのだ。

 

という風に書くと、僕がセックスをよくしていたのでは、と勘違いされるが、ティンダーを始める前は、数年間誰とも関係がなかった。当時の彼女と別れたから、多分3、4年セックスをしていない。AVは観てたから想いはあったが、行動に移せるほどの興味や勇気がなかった。

 

そう、ポテサラさん(仮名)との関係が終わり、その後ティンダーを触るが上手くいかず、なぜかツイッターにたどり着いた。なぜツイッターにたどり着いたか、よく覚えていない。多分だが「セックス したい」みたいにグーグルで検索して、色々なマッチングアプリ、ナンパとともに、ツイッターが出てきた気がする。

 

そして、裏垢というものを使った。僕の本当のアイデンティティと紐づく記号はあまり使わず、表では表出しない言論を使い始めた。つまり「セックス」「チンチン」と呟き始めた。

 

当初、ツイッター上で検索すると「◯ㇷパコ募集中♡」みたいなアカウントを沢山見つけ、テンションが月まで飛んでいったのを覚えている。「え、セックスできんじゃん」と思い、知らない人にDMを複数送る。返信がなく終わったが、すぐ後に間違いだと気付く。そう、間違いだと気付くまで少し時間がかかることを考えると、僕がモテてこなかったのは分かるだろう。

 

そうして、結局セックスできておらず1年。セックスをしたくて始めたツイッターで、セックスと全く関係のない政治やビジネスや社会など(中田敦彦がどうとか、トランスジェンダーがどうとか、モテ論がどうとか、ベンチャー企業がどうとか、Z世代がどうとか)様々な議題についてイチイチ反応して場合によってはイチイチ何か言わないと気が落ち着かないという、本末転倒な状態なのだ。

 

そして、2日に一回くらい思い出す。「僕はセックスをするためにツイッターを始めたのだ」と。モテるコツ、女性心理、セックスのNGなこと、そういった類の情報を武器にするつもりだったのだ。それを思い出してほんの少しだけ哀愁に浸り、そしてまたツイートする。「チンチン」と。

「退職したときに挨拶するのが社会人としての当然のマナーだ」といううんちツイートについて

「退職したときに挨拶するのが社会人としての当然のマナーだ」というツイートが流れてきた。俺はある何人かを除いて挨拶せえへんかった。150人くらいの規模の会社で、社長、副社長、事業部長、他の部署のあんま喋ったことない人たちには挨拶せんかった。だからツイートに反応してもうた。案の定、意見は割れてるみたいやったけど、「こんなに挨拶できない社会人がいてびっくりです、残念です」みたいに何も考えず賛同してるアホもおった。

 

リプの中には「ハラスメントを受けて病んだ」「ベッドから起きられへんくらいで休職してたからフェードアウトした」「ムカつくことがあったから挨拶してない」みたいな意見もあった。元のツイートの主は「心中お察しします」「そうなんですね」と返信してるものの、明らかに理解できへんかった。

 

完全に「挨拶は社会人としてのマナーだ」で思考止まっとった。「どんな状況であれ挨拶すべきだ」って書いてたからな。「どんな状況であれ」って、場合によってはまじで恐ろしい考え方やで。こういう「マナー」「ちゃんとした社会人」みたいな思考停止、固定化された観念が人を苦しめるんだよな。という訳で俺は自己満足のために文句を言い続ける。


社会人のマナー、ちゃんとした大人、常識とか、うっせぇ糞野郎って感じですわ。うつ病になってもうちゃんと生きるのは諦めてん。退職の挨拶をして心がしんどくなるなら、自分優先したいねん。わかるで、社会不適合なの。でももうちゃんと生きられへんねん。ちゃんと生きようとしたら死にたなんねん。

 

もちろんあれやで、社会人のマナー、ちゃんとした大人、常識、みたいのが重んじられてそれから外れると「情けない」「間違い」って決められる世界が日本の大半を占めてるのも分かるで。でも俺がどう生きようが、お前らがどう言おうが、お前らに俺の価値決められたないねん。

 

だから反論したかて、主張したかて意味がないのは分かってる。「例えばベッドから起きられない、酷いこと言われたから退職の挨拶したくないんです」ってどれだけ言おうが理解、共感されへんのも分かってんねん。だって体験せな分からんから。頭固まったら誰が何言おうが伝われへんねん。

 

だからあれやで。俺がなんか反論したんはただの自己満足や。本当は反応せん方が俺にとっては健康やったんや。精神疾患、心の疲弊、心身の病みを理解してくれへん人はいるって分かってんねん。理解って、「病気なんだな、大変なんだな」くらいでええねんで。

 

それでも理解されない部分があるってのは分かってんねん。例えば人を殴って「本当に心病んでて恨んでたんです」って言っても理解されへんのと、もしかしたら構造は似てるかもしらへん。アクションが暴行罪か社会人のマナーを破るか、の違いなだけやからな。

 

一方で理解がある世界もあり、理解がなくても生きていける世界もあると思ってる。俺はそういう世界を見つけて、俺が輝ける場所で俺が輝ける能力を使って輝くねん。個性を光らすねん。「常識」「社会人としてのマナー」「ちゃんとした大人としての働き方」に綺麗に準拠するのはむずいって理解してん。

 

言うとくけど、社会人のマナーに全ては向かいたい言うてるんちゃうで。「マナーだから何としてでもどんな状況でも守ろう」みたいな思考停止が嫌やねん。リスペクト、尊敬は大事や思う。ただそれをメタで理解した上でも、「やりたくない、本質がわからない」って場合があると思うねん。

 

こういうの、会社に捨てられうつ病のなって理解したことやから、仕方ないねん。だから俺は死にたいと思わへんくらいの、ベッドで動かない状態にならないくらいに、可能な限り社会と調和して生きていくって決めてん。たぶんある人たちにとっては「情けない」「間違い」「ちゃんとしてへん」てなる思う。

 

それでも、そうやって他人の評価が落ちたとしても、多少のマナー違反があったとしても、ちゃんとした社会人としての振る舞いができなくても、今日生きよう、明日生きよう、と思えることを大切にしたいねん。だから申し訳ないけど、常識とかちゃんとした社会人とかそういう固定観念には抗うわ。

 

社会に迷惑かけるかもしれへん。でも多少わがままでも、多少迷惑かけても生きていきたいおもてんねん。「自分らしく生きることで社会人のマナー破るな」って、ラインが難しいけど、抽象化したところでは自分らしく生きていきたい。

 

常識とかちゃんとした社会人の輪に入るのは諦めた。外側にも俺が輝ける世界があると信じてる。社会不適合者として生きていくわ。よろしゅう。以上。

「結婚式が自己満でも新郎新婦のために素直に喜べない奴はどうかしている」という件

タイムラインで流れてきた。具体的な文言は覚えておらん。まず「結婚式に出席して式が自己満まみれだった」という意見があった。そしてそれに対して、「結婚式は新郎新婦のためのもの。どれだけ自己満であろうが新郎新婦のために素直に喜んであげるべき。喜べず『自己満だ』なんて言うやつは心が狭い。人間関係を見直した方がいい」と書かれていた。

先に伝えておく。「そもそも前提が違うよ。意見や論拠が正確じゃないから、誤った前提に積み上げられているから、たかはしが言っていることの全ては脆くて意味のないことだよ」と思われようがどうでもいい。これを書くこと自体、別に何かに反論したい訳じゃない。「反論という体」をとった、戯言なのだ。そもそもなぜ僕がトゥイッターで裏垢をしているかというと、セックスがしたかったのだ。

さて、僕は式には行ったものの自己満足で辟易している側に賛成である。以下で説明する。

前提として、僕は結婚式をしたことがないので結婚式への思いや大変さが理解できていないです。一人の人間として感じたことである。そしてダラダラ長く書くが、まあ僕も最近結婚式に出席して思うことがあったので、せっかくだから考えてみよう、くらいの気概で書く。

一人の人間として感じることは簡単に言うと、以下である。

  • 「少なくとも僕は、数万円ご祝儀を払ってある人たちだけが喜んでるところだけを観察して喜べるような、できた人間ではない。参加者を喜ばせる気概は必要だと思う」
  • 「断ればいいじゃん?と言いつつ、どんな関係であっても相手から誘われると断りずらい圧力、何かしらの要因は絶対にある」
  • 「感謝や思いやりの気持ちが大事。相手が『来てくれてありがとう』と感謝されていると感じているかどうか、そういう空気、行動が実現できるかが大事」
  • 「まあ結婚式に関して、文句言ってもいいじゃない、別に?」

ご祝儀払ってるから出席者を多少は喜ばせる思いはあってもいいと思う。主役は新郎新婦で正しいけど、式って参加する人、そして参加する人が支払うご祝儀で成り立つから、完全な内輪ノリだけでは正直納得がいかない。「他者を巻き込んでいるのだ」という気概がほしい。もちろんやりたい式というものがあるだろうから、やりたい式と参加者を楽しませる式の間のちょうどいい距離感を狙って参加者を喜ばせる意識もほしいなと思う。

例えば僕の個人的経験だと、司会者が少しうざいと感じた、音のボリュームが大き過ぎてしんどくなった、ということがあった。式自体は楽しいし、「おめでとー」って気持ちだけど、そういうネガティブな部分が完全に拭えというと難しい訳で。だから「あ、自己満だな」って感じてしまうということは、主催者として、招待の言葉から式の内容まで、何かしらもしかしたら少しでも工夫ができたかもしれない、と考えてもいいと思うわけ。

多少まあ何を見ても「自己満」って感じちゃう人はいる訳で、慣習としての意識や物の見方として「自己満だ」みたいに厭世的にしか感想を抱けない人もいると思う。ただ、多少は参加者に思いを馳せて「これ理解できるかな?」「これで楽しいかな?」と考えて工夫をしてもいいと思う。もちろん外れる場合もあるし、参加者全員を楽しませるなんて不可能かもだけど、気概の話で。文化祭とかでも学生が主役で参加者は学生がどんなことをしても楽しく精神はありつつ、さすがに内輪ネタ過ぎるとか芸の方針が低俗過ぎるとかは楽しめない訳で。

「欠席にすれば」という話も正しいとは思いつつ、誘われるとなかなか断りずらいし、断ると嫌な気持ちになるのでは、と考えてしまう社会的プレッシャーは簡単の無視できない気がするな。「行って『自己満足だ!』って言うくらいなら行くなよ」という話もありつつ、そんな簡単に割り切れるか?とも思うのや。文句言いたくなるけど行かないといけない催し物や言動って結構あるやん?

誘う方も沢山誘ってるから断ってもいいって話もあるけど、結婚式したことないとそういう事情ってあまり分からないし、誘ってくれたからには「参加しないと困るのでは」って考えてしまうよね。あとは久しぶりに誘ってくれた場合、「あ、なんか嬉しい」という感情も無きにしもあらずだし。「もしかしたら仲良いと思ってくれてたのかな」ってワクワクしていったら、人数合わせだったら、やっぱりガックシくるよね

あと自己満だと思ったら「自己満だ」ってトゥイートしてもいいやん、と思う。だって「自己満の式に参加した」って結構面白い体験やがな。そして「自己満だな」って感じた経験だけでもどうにか面白くコンテンツにしたいがな、って思う。SNSってそういう場やん。そりゃ人の名前を出したりしたらあかんけど、別に「自己満の式だった、クソがッ!!」って正直な気持ちを吐露するくらいええがな。それを慎んで建前だけで収めるとそれこそ面白くない世界になるわけで。

あと、あまり仲良くないけど誘ってくるって結構一般的な経験じゃないかな。人数集めないといけないから、みたいな。それは主催者側がもうちょっと上手くコントロールできる気がするけど、難しいのかな。「盛大に結婚式を上げたい」という想いが先走ってプランニングを間違えている可能性というものは無いのかな。結婚式に誘える仲が良い人の人数ベースで席数を設定するのではなく、「やっぱり結婚式は〇〇人くらい呼んで盛大にやりたいな!」って想いだけで人数を設定しちゃうから、(言い方が悪いけど)人数合わせのために「あれ、あまり仲良くないのにな」って相手が思ってしまうような人も招待しているのではないかな。

ほんで、結婚式に誘う人がどれくらいの仲良さなのか、みたいなもの(まあ明文化なんて難しいだろうけど)の認識がバラバラだから、期待と実績にずれが生まれるんだろうな。誘う側は「誘おう」と思っても、誘われる側は「何で、私」となってるケースもあるかもだろうし。それで言うと、もしかしたら結婚式がどうあるべきか、の認識もバラバラなのかもしれない。「本人たちが喜んでいるだけで良い」とするならそもそも文句なんて生まれないだろうけど、僕からすると「親友であっても、数万円は払ってるんだから、本人たちのみが楽しめるような式はイケていない」と感じる派なので、やっぱり楽しめる式の内容(食べ物から司会から演出まで)をちょっと期待してしまうんだよね。

あ、思い出した。友人が東京から大阪まで行って式にでたときに、その移動についての言及は全く無くて、友人がとてもとても怒っていた。東京に住んでいるのに何事もないように誘って、式が終わった後も何も声掛けとかなかったらしい。別に交通費とかを補助してほしいとかではなく(もちろん新幹線指定席で片道15000円くらいかかるから、少しでも補助してくれるなら本当に本当にありがたいのだけど)、「わざわざ来てくれてありがとう」とか、少しの声掛けがあるだけで違うんだよね。式の前後は忙しいだろうから、ちょっとずれてもいいし、本当に一言だけでもいいから。「お金を出してくれ」という話ではなく、ほんの少しの思いやり、感謝だけでも見え方がぜんぜん違う、という話で。

そう、思いやり、感謝の話な訳ですよ。なぜ自己満と感じたかのポイントって、そりゃ新郎新婦自身が満足しないと元も子もないわけやけど、自分本位が過ぎて、参加者への思いやりや感謝に欠けてたら、式のコンテンツがどうであれ「自己満」って感じて参加者の満足度が下がってしまうやん。

繰り返しやけど、「『自己満と感じてしまうのに式には断れずに出席した』って、人間関係を見直した方がええんちゃう。あんたが『え、なんで誘われたん?』って思うんやったらお互いの仲良さの認識がズレてるかもやし、そもそも式を断れるような関係も大事やから」という正論もあるやろうけど、人間関係、そんな単純に割り切れたり、全てが綺麗に収められたりするもん違うわな。

少しの感謝や思いやりがあれば、そもそも誘う段階から、そして式の中身前後の対話が変わって、参加者の印象が変わるかもしれない。同じコンテンツでも、「来てくれてありがとう」って伝えられるだけで、自己満とは思わず「おめでとう」って思えるかもしれへんやん。

もし完全に「自己満やん」って感じてしまったということは、なんか、自分本位過ぎる部分がにじみ出てたんとちゃうかな。繰り返しやけど、3万とか5万とか払うわけで、例えば僕みたいな一般社会人30歳独身にとって大きな出費だから、そこへの感謝はあってもいいと思うわな。

ほんで「自己満やん」って表現することに対して(別に当事者に直接言っている訳でもないのに)、「心が狭い」とか「嫉妬やん」とか、それ自体が特大ブーメランかもしれない、と思っちゃうわけ。別にいいと思う、自己満だと思ったから自己満だって表現しても。もちろんそれに対して何を思って何を感じてもまあいいんだけど、「自己満だと思うことはよくない」というのは、偏りすぎてるのでは、と思う。

以上です。急に終わってすみませんが、まとめとしては「式をする側に参加者を楽しませる精神があってもいいと思う」「まあ何をしても『自己満足だ』と感じる人はいるからまあ放っておくしかない」「簡単に断れるほど人間関係単純じゃない」「お互い感謝、思いやりの気持ちが大事」「色んなこと表現して楽しみたい」でした。

では僕は乳首がかゆいので、乳首責められる系のアダルトビデオを今日は観ようと思います。

酔っていた

SNSである曲を紹介してもらった。会ったこともない、顔も知らない人から。indigo la Endの『煙恋』。

具体的にどういう状況を歌った歌詞か、僕はわかっていないと思う。でも、語り手は混乱している。自分の感情がどういう名前で形容するか、自分でも分かっていない。すごく曖昧で非決定的で。結果を突然突きつけられて情報を処理しきれていない。感情が結果に追いついていない。

僕が歌詞が表現する心の機微を理解できるとは思わない。そんな美しく語られるような経験をした記憶はないし、感情の微妙な動きを捉えられる繊細さも持ち合わせていない。

でも誰しも経験したことがあるのではないだろうか。急に始まる。急に終わる。始まったことに気付いていないうちに終わってしまう。終わったあと、いくらか時間がたってはじめて「あ、終わってたんだ」って気付く。その間の感情はあっちにいったりこっちにいったり。

先日、一緒にいた人から別れを告げられた。もうキスやセックスはできないと。まずは過去の気持ちに立ち向かわないと、と。すごく唐突だった。マッチングアプリで出会った人だった。だから終わりもすぐに来るんだろうなとは心のどこかで予想していた。何も理由がわからずに急に連絡が途絶えることもよくあるという。だから予想していたつもりだった。でも実際に「あ、もう会えないかもしれないんだ」と考えてみると、気持ちは追いついていなかった。辛かった。涙が流れた。

「恋惑う」ってこんな感じなのかなと思った。感情あっちいったりこっち行ったりする。起きたことについていけてない感じ、頭や身体だけ動かそうとして感情が戸惑ってる感じ、空回りしている。

「好き」かどうかはわからない。でも会えなくなって悲しくなったのは事実だ。急に自信がなくなって劣等感や寂しさが帰ってきたのも事実。おそらくその人と一緒にいる間、「認められた風で本当に良かった」と思っていた。本当に認められていたか、一般的な意味での「恋愛」とは違うと思う。でも「認められた風」に感じてたおかげで、孤独を感じなかったり劣等感に襲われなかったりしたんだなと。混じり気のない気持ちに自分で酔ってしまっていたんだなと。

「愛されて惹かれて比べて疲れて振られて慣れた」

儚さ。知らぬ間に始まって知らぬ間に終わって、知らぬ間に疲れている。そんな感じだった。

僕はマッチングアプリを積極的に使いはじめて数ヶ月しかたっていない。容姿も優れている訳ではなく、そんな沢山の方と関係を持った訳ではない。でも、予想はしていても、終わりが急にくるのは辛い。心が沈んでいる。期待しすぎてしまったかもしれない。「彼女」「彼氏」という名前で呼ぶことを怖がってたかもしれない。

恋愛とかセフレとかだけじゃなく「ABか」を明確に言い切るってできないんじゃないかと思う。言い切る必要もないと思う。例えば感情に関して「これが悲しさかどうか」「好きかどうか」ってよくわからないし、考えるのもめんどくさいなって思うことがよくある。そのままでいいじゃんって。複雑なまま、混沌としたまま受け入れたらいいじゃんって。よくそう思う。

だから「それって彼女?」「それってセフレ?」って聞かれた時に「わからない」以外の答えを求められたら困る。現実に友人から聞かれたとき、適当に答えたけど、心の中では「わかんないよ、そんなの」と思っていた。

「割り切る」という言葉をよく聞く。セックスをするだけの関係とお互いに認識して、ときに明言してそれ以上の感情は抱かない。セックスをするだけの関係にはそういう「割り切り」が必要なのだと。覚悟が必要なのだと。

僕はそういう風に明言した関係を持ったことがないからわからないけど、どのような関係でも、関係を持ったものに別れが来ると、多少なりとも感情は揺れるのではないだろうか。理解が追いつかないんじゃないだろうか。「割り切り」「覚悟」が必要って、合理的で真っ当な正論だけど、人間ってそんな風に感情に切れ目を入れて管理ができるものなのだろうか。慣れていると思っていても、覚悟ができていると思っていても、何も感じないということは無理なのではないだろうか。本当に割り切れる人もいるのかもしれない。僕は無理な部類なのだろう。

遊びを目的としているマッチングアプリでも、「恋人」と呼ぶに至らなくても、大事にしたい人があらわれる。時間とエネルギーを注ぎたいと思う人があらわれる。相手はそんなことは求めていないから、めんどくさいことはしたくない。でも惹かれる自分もいる。自分をさらけ出して押し付けたくなる。でも逃げられそうでこわくなる。心が本当に感じていることがわからなくなる。迷子になる。

僕が持っていた関係は、たぶん世間的には「セフレ」だったのかもしれない。別に自分たちで何か定義を設けていたわけじゃない。だから、片方が遊んでいるつもりでも気付いたら遊び以上になっていたりして、距離の詰め方がわからなくなる。どれくらい気持ちを注いでいいかわからなくなる。

「この関係ってなんなの?」って明確にしたいと思ったこともあった。そうやって関係に名前をつけることで壊れてしまう何かもあるかもしれないと自覚もしていたから、名前は付けなかった。それでも、探りながらちょっとすり足で近づきたくなる、リスクをおかしたくなる、そんな人だった。

その人に対して他の人とは違う特別な感情を抱いていた気がした。白か黒か、0100か、ABか、決めなくてもよかった。言葉にしなかったけど、お互いが余白を求めていたことはわかっていた。でも、はっきりさせたい自分もどこかでいた。今でも特別な感情を抱いていると言葉にすればよかったと思うことはあった。同時に、距離を詰めすぎてしまったことを後悔しているような気がする。

今僕は悲しい。もし今回距離を詰めてなかったらたぶん落ち込むこともなかったんだろうなと思う。心いっぱいに抱きしめないほうがよかったのかなと思うこともある。でも、すごく短い間だけでも、僕は満たされていた気がした。酔っていた。認められていたような気がした。

この悲しい感情に嘘はない。

川崎の風俗嬢と話したい

フリーで働けるなら働きたいなと考え始めた。文章を書いて生活したいと前から思っていたから、ちょっと試してみようかと思う。まあ難しければ一旦アルバイトするなり何なりで何とか生活さえできればいい。飽き性だから副業より複業の方がよさそう。

去年の末に中野坂上に引っ越してきたら、本当に正しい選択だった。家賃が2万ほど安くなり、部屋の広さは(クローゼットの空間も含めると)3倍くらいではないだろうか。なるべくここで生活できるように頑張ろうと思う。そんなことが起きるか分からないが、追い出されるのだけ怖い。

因みに、数年前にソーシャルアパートメントと呼ばれる類の物件に住んでいたが、追い出された。まあ全員だが。「管理会社変わります。ソーシャルアパートメントではなくなります」とのことだった。めちゃくちゃめんどくさかった。物件は蒲田辺りにあったから、雰囲気的に好きだった。

二駅くらい離れた川崎は、汚い感じ、工場に囲まれた感じ、治安が少し悪そうな感じが僕の地元に似ていて親近感が湧いた。川崎の風俗にはよく行った。堀之内というエリアは、ソープやヘルスの店舗が集結していて、スーツの客引きがポツポツと立っている。非日常的過ぎる空間で、いつも気分が高揚したのを覚えている。

お酒を飲みながら川崎や蒲田の夜の繁華街を歩いたのを思い出すと、23年前のことだが哀愁を感じる。新しい世界観へ足を踏み入れたのだ。少し怯えながら、慣れているような素振りをして、地下のピンクサロンへ入った。中国系の客引きに恐る恐る付いていったこともある。僕にとっては未開拓の世界。自分が少しだけ大人になった気分を得た。もう前の自分には戻れないような感覚があった。

川崎・堀之内のヘルスの風俗嬢で何度も3度ほど指名した人がいる。優しくて、気が合う人だ(「気が合う」は僕がそう感じただけだから、相手は単純に接客をしていて、接客のスキルが高いのかもしれない)。出身が関西で僕と同い年。今でも会いたいと思ってしまう。会うと15000円、2万円ほどなくなる訳だから、そんな簡単に会いにはいけない。しかも今は次の仕事も決まっていない状況だからなおさらだ。僕のことを覚えているかは分からないけれど、もし少し仕事が安定してきたら、色々話を聞いてほしいなと思う。

話を聞いてくれる人を求めているのかもしれない。波長が合って、お互いの心配事を共有し合える。別に解決策や正論を求めている訳ではない。「そうだね、大変だね」と労ってくれる存在。「大変だね」という言葉が、そのまま労いとして心に届く信頼関係、安心感。そういう存在を求めている気がする。

去年の今頃は、そういう存在の人がいた。ティンダーで会った人だ。セックスはしていたし、デートも行ったが、お互いに関係性に名前を付けることを避けていた。彼女とは安心感があった。単純に「恋人」と形容できないような、信頼関係があった。「会いたい」という気持ちは、今ままで僕が過去の恋人に抱いていたそれとは少し違う気がした。

関係性は違えど、僕が求めている安心感は、川崎の風俗嬢と、ティンダーで会った女性に共通していたのだ。「安心感」と呼んでいるが、承認欲求に近しい何かかもしれない。誰かに存在や苦労を労ってほしい、そういう感覚。「あなたは生きていて価値があるんですよ」って、感じさせてほしい。言葉や表情でそれを伝えてほしい。

僕が「寂しさ」と感じるものは、これかもしれない。「今のままでいいよ」「自分らしく、自分が心地よく生きたらいいよ」「うんうん、大変だったね、生きてるだけで偉いよ」「辛いけど、起きるべくして起きたんだよ」「前向きに生きて、というサインだよ」「何とかなるよ、大丈夫」と、感じさせてくれる言葉、存在、関係性。その欠落によって、寂しさを感じているのかもしれない。

この感情の存在、それ自体は認めて受け止めたい。でも、この寂しさを抱き続けることが健全かどうかは分からない。だって誰かとの関係性や誰かからの言葉でしか自分の存在を肯定できない訳だから、他人に依存しないといけなくなる。

他人に依存すると、承認が提供されなくなったときに崩壊してしまう。少し稚拙な表現なのかもしれないが、「自己肯定感」が低いままになって、憂鬱、不安、苛立ち、虚無感を覚えてしまう。僕がうつ病になった一つの要因はこういう性質だと思う。

あとは、他人に依存すると、自分らしさ、個性と段々離れていく可能性だってある。「相手が存在を認められたい」が原動力になってしまい、相手が評価するような行動や変化を起こしてしまう。気付いたときには、自分を見失っている可能性だってある。

だからある程度、自分で自分を肯定する、精神的な体質が必要なのだろう。別に他の人から認められようと思うことが間違っている訳じゃないと思う。寂しさ、虚しさを満たすためには、人との対話やラベルの付けられた関係性、セックスを求めることは至極人間らしいことだと思う。

程度や広さの問題かもしれない。他人が承認してくれないと全面的に虚しい、ある一人の人との関係性が継続されないと寂しい、という風に限定してしまうのが駄目なのかな。駄目というか、危険なのかもな。自分で今の自分(自分らしさ、個性)を承認できる心の癖と、沢山の人に広く浅く依存する習性(一人の人に深くい依存しない)が、生きていく柱になるんだろうな。

と、うつ病になって数年で気付いた。気付いたからといってできることでも無いし、他人の承認を求めることが悪いことでもないとも分かっている。良し悪しって何なんだ、という話でもあるし、僕もいつも認められたいから「寂しさ」「虚しさ」を感じるのだろうし。久しぶりに川崎の風俗嬢に会って話したいな。

不条理と人の温もり

東京で金髪髭メガネで半袖半パンサンダルで育毛剤をポケットに入れてトゥイートしてる人はいたら、それ僕です。

僕は先週会社を追い出された。追い出す話は30分くらいで済んだ。形式的には希望退職なんだけど、実質はクビと一緒。「あなたはもう会社に必要ないからどっか行って」と言われたのと同じ。5年も働いてんで、5年。しかも新興企業ってやつで、会社が運営されている半分以上僕働いててんで。普通、社長とかから話あってもええやんか、そんな数百人も社員おらんねんから。何もなしですわ。上司から急に「一対一の打ち合わせ入れといて」って言われて訝しんでたら、これや。舐め腐っとるわ。

ほんで思い出してんけど、辞めてほしそうな感じはあってんな。会社を追い出された数日前にこれまた一対一で話し合いをしたときに、チームメンバーが希望退職します、言うて。ダラダラと「これから厳しくなるよ」的な、おもんないこと言われて、でも僕はもうちょっと頑張ろうと思てたから「踏ん張ります」って言うたら、反応が明らかに微妙やったんよ。「おお、そうか、一緒に頑張ろう」とか全くなく、「へぇ、そう」みたいな、返答に若干困ってるような。

振り返ってみたら、そのときから僕に辞めてほしかったんやろな。たぶん希望退職(数十人希望退職を募集し始めてんけど)のターゲットリストみたいなもんがあって、その中に僕の名前もあって、追い出す前に自発的にやめてほしかったんやろな。部門長とか僕のこと忌み嫌ってたんですわ。他の人も明らかに戦略的に追い出された言うてたもんな。嫌いな人を追い出せてよかったね、部門長。まだ胸くそ悪いよね。

嫌なことがあると、ポテサラさんにお話したくなる。ちょっとラインもしちゃった。「ゆっくり休んでね」ってとても優しくしてくれた。僕のトゥイートではポテサラさんという人がよく出てくる。ポテサラさんは僕がティンダーで会った素敵な女性。去年の春頃。数ヶ月だけ一緒に過ごした方。

何度もトゥイートで言ったのだが、ポテサラさんと初めて会ったとき、待ち合わせ場所の数秒でこの人とは気が合うと確信した。上手く言葉にできないけど、間のとり方、笑いのツボなど、挨拶を含む数秒っで相性が良いと分かったんだよな。そのあと居酒屋で3時間くらい話してご飯食べてお酒飲んで。背伸びせず、自然に会話が繋げられて楽しかったな。その日に勇気を出してホテルに誘った。

その出会いから毎週か隔週くらいで会ってて、会う度にお互いのことを知れて楽しかったな。ポテサラさんはどう思っているか分からんけど、楽しそうにはしてくれてた。でも、突然「もう身体の関係は止めたい」と連絡があって、びっくりしたな。お付き合いしてた方がいて、まだ吹っ切れていないみたい。それから一度か二度ご飯は行ったけど、連絡はほんと数ヶ月に1回取るくらいになっちゃったな。

ポテサラさんにも彼氏ができたみたい。嬉しいような寂しいような。僕も素敵な女性と出会いたいなと思い、ティンダーを一生懸命操作する毎日。仕事もどうにかしないとなのだが。なんかこう、人の温もりとかに触れたくなる感覚ってあるよね。特にそれなりにハードな人生の不条理にぶつかると。

素敵な出会いを求めて、精魂込めて、右に左にシュッシュとスワイプします。

奢る奢らないの話

奢る奢らないの話、「男性が奢るべきだ!」ってパブリックで主張すること自体に違和感があることに気付いた。別にひっそり「男が奢るべき」って思ってたらいいと思うけど、それをSNSとかテレビとかで「奢るのが当たり前です!」って主張した瞬間に「あ、なんか冷める…」となる、ということに気付いた。

あと極論過ぎるのもちょっと苦手なのかもしれない。「男性が奢るべきかそうでないか」の二元論でなくても、連続的に捉えてお互い少し余白を設けた方が楽なんじゃないかな。奢ってほしくない女性もいるだろうし、奢りたいと思う魅力や時間もある訳で。「奢る」という行為が好意を示す場合もあるし、逆に失礼に当たる場合もある。

「え、男性が経済的に優位で金銭的に支援しないと女性は生きていけないと思ってるの?」って奢る行為の構造の部分に侵食してしまう場合もあるだろうし。「もう二度と会いたくない」から、今全部奢っちゃおう、って思うケースもあるだろうし。

例えば歳下だから奢るって偉そうじゃない?と考えるケースもあって、相手も奢られるのに気が引ける場合もあるだろうし。要は、お互いの思想、お互いの性格、お互いの経済的価値観、お互いの年齢、過ごした時間に対する感想、お会計の値段、何回目の会食でデートだとしてもどれくらいの信頼関係か、など。

いろんな要素が複合的に絡んでるから、それをひっくるめて「奢るか奢らないか」という問いを立ててそれに答えを出そうとすることが不毛な気がする(もちろん極論なので思想が出て議論が活発になってエンターテイメントや思考実験としてはすごく有益だと思う)。

そして、一方が他方に対して「〇〇すべき」と、相手にある行動を義務として規定することに違和感?というか滑稽さ?を感じる気がする。一般化し過ぎでそれを発言することで頭の柔軟性がないことを世の中に知らしめている気がする。繰り返しですが、エンタメとして戦略的にやっているならOKだと思う。

ただそのエンタメに対して「そうだ!」「そうじゃない!」って議論するのは、まあメタ的に見ると面白いんだけど、本気で答えを出して納得させようとしてるのなら、不毛な気がするな。たぶん奢りたいと思ったら奢るし、奢りたくないと思ったら奢らないし、奢ると失礼なのでは?と考える場合もあるし。

ちょっと高級過ぎるから「ちょっと助けてくれると助かる」って場合のあるし、それでちょっと出してくれてもお互いが心地よい関係性もあるし、女性側も「少し出したい」「奢られたくない」って思う場合のあるだろうし。人や状況によって色んなケースがある。

それで関係性の意味も変わって「奢ってくれなかったからもう会いたくない」「もう会いたくないから今回は全部払おう」「次は奢ってくれるかもだから待とう」「少し助けてくれて嬉しいからまた誘おう」とか、関係性がどう発展するかも変わるだろうし。

という訳で、僕個人的には

  • 奢られることを当たり前だと思ってることを公表しない方がいいのでは?
  • 奢られたいとしても絶対にそこに感謝がないと人間性として魅力は感じない
  • 色んな考え方、関係性、状況があるから、余白を設けたい
  • 「奢るべきかどうか」へのロジカルな答えの追求は不毛

です。

まあなんでもええわ。セックスしたい。